しらす厄介勢

しらすはおいしい。

特に白飯にかけて食べるのが好きです。卵かけごはんのトッピングとしても優秀ですね。醤油は少なめでお願いいたします。

そんな万能食材ですが、まったく食べることができず、手をつけられない時期がありました。

「お残しは許しまへんで」。一度供された食事を残してしまうのは、たとえ自ら用意したものであろうと極力避けたいと感じています。では"残す"とは何か。なにをもって、どこからをもって残すことになるのか。

200gステーキの、皿の端でひっそりとたたずむ、1cm四方にも満たない小さな肉片。これが見過ごされていたとしても、ステーキの大半が胃に納められていれば残したことにはならない。そう考える人が多数だと思っています。「命をいただく」ともよく言われますが、"供された命のほとんどはちゃんとおいしくいただいているので"。

では、しらすで同じことを考えてみましょう。1cm四方ほどとなると、ほぼ一匹です。"ひとつの命がそこにすべて残っている"ことになります。「一匹丸々は見逃さない」という方も、それでは身の半分ほどだったらどうでしょう。プラ容器のくぼみに残った、身切れたしらすの半身。"命の半分がそこに残っている"。"ほとんど"と比べたら、だいぶ許されない"命のお残し"ではないか。

もちろん、一片たりとも見逃さず、ぺろりと舐めたようにたいらげられればそれに越したことはありません。でもしらすってその辺面倒じゃん。パッケージからきれいに空けるだけでもそこそこ手間なわけで。できないわけじゃないけれど、疲れてしまう。そこまでして命と向き合いたくなかった。

そう思い至り、しばらくしらすを忌避していました。好きだったのに、スーパーで並んでいても一切手に取らなくなっていた。

今? 今はふつうにおいしく食べてるよ。これは精神的に余裕がなかった時期の話なので。