"デザイン"における僕の宗教観の話

広義

僕のなかでの広義の"デザイン"とは、目的達成のために行使される"手段すべて"のことを指している。

例えば、

長時間の読書で目を疲れさせないために画面のコントラストを下げる選択はデザインだし、

この記事が日本語で書かれているのも「僕が日本語話者である」「精度の高い翻訳を誰かに依頼する予算がない」等々といった諸条件を踏まえ、「情報を発信したい」という目的のためのデザインだし、

腰痛で動けないけど自宅に食べられるものもない、という時に出前館に頼るのもデザイン。

前に進みたいから足を踏みだすのも、デザイン。

世の中のほぼすべてはデザインで回っている。そのくらい大きい概念だと捉えている。

デザイナーとアーティスト、二項の世界

広義のデザインをそのまま適用すると、全人類、いや全生命がデザイナーになってしまう。実際そうなんだと訴えかけたいが、さすがにいろいろ面倒くさくなる。

そこで「ものづくりの範疇で」という"狭義"を用意して、その世界のなかの話をしたい。

この世界には"デザイナー"と"アーティスト"がいる。アーティストも、僕のなかでは一般のそれとは少し違った定義があって。ものづくりでデザインを成すという点で共通しているこの二人種を分けるのは、「何のためのデザインであるか」という部分。

デザイナーは、誰かの、あるいは自身の外的な目的達成のためにデザインをする。

アーティストは、自身の内的な目的達成のためにデザインをする。

そして、この二項は完全に分断されているわけではなくて。グラデーションを描いて繋がっている。

デザイナーが、クライアントワークのなかで「己がカッコいいと思うものを作りたい」と感じ実行した時、それはアーティストの領分にも足を踏み入れていると言える。

アーティストが、自らの情念を具現したいとキャンバスに向き合った時、「展示会での見栄え」を意識して色使いを変えたのなら、そこにはデザイナーの感覚が宿っている。

比率が10:0の人物は、まあまあまずいないと思う。この枠組みで言えば、究極に純粋なデザイナーとは徹底した滅私をおこない、一切の個性を露出させない人になっていく。

我が強い僕にはそんなん無理だし、面白くなさそうだし、目指すこともないと思うが、究極である以上僕が考える"理想のデザイナー"はそういう人物像なのだとも言える。なので、デザイナーをただ「オシャレなものを作る人」だと捉えられるのは大きな誤解だと思っているし、デザイナーであるならば、それが目的達成に寄与するのであれば、泥水を啜って吐きながら楽天の商品ページみたいなうんこを作ることも是でなければならない。理想ならね。

という話を、

なんとなくどこかでしておきたくなった。宣言というか。立ち位置の表明、みたいな。